対馬は、日本海の西に浮かび、九州と朝鮮半島の間にある島で、長崎県に属します。対州ともいいます。洪積世の末期(約1万年前)に誕生したと推定されています。島の大きさは、南北約82q、東西約18q、面積は、708.32kuで、その89%が山林です。沖縄本島、佐渡島、奄美大島に次ぐ4番目に大きな島です。厳原町、美津島町、豊玉町、峰町、上県町、上対馬町の6町は合併し
、2004/3/1、対馬市が誕生しました。 人口は、1960年の約7万人のピーク時から減少し始め、現在は約3万2000人(2016,Aug)で、過疎化をくい止める効果的な手だてはありません。 対馬市施行を機に、魅力ある島にしたいものです。 風光明媚な景観を保存するため、1968年国定公園に指定されました。また、史跡、文化財が豊富で、地理的特殊性から、対馬特産、大陸系の生物も多く、後世に伝えるよう努めたいものです。 |
朝鮮半島の南に位置する対馬
【対馬市の文化、歴史、観光、グルメ他】
対馬への足は、フェリーの他、ジェットフォイル便(博多、釜山)、
空路ジェット/
ターボプロップ便(福岡、長崎)があります。
ナチュラルな観光地が訪れる人々を魅了し、心を癒してくれることでしょう。全島観光は、1両日では無理なので、観光案内を見て、目的を絞り計画を立てての来島をお奨めします。
風光明媚な国定公園の旅、海の幸、山の幸が美味しいグルメ旅、対馬厳原港まつり、ヒトツバタゴ祭などのイベント旅、生物観察・研究の旅、文化、歴史(歴史年表)探訪、自然欲の旅、韓国展望の旅、釣り、キャンプ、海水浴の旅・・・。ホテル、旅館、民宿、ユースホステルでの美味しい食事で満腹。きっとあなたの心は満たされることでしょう。
対馬の風物詩のひとつ、海上の幻想的な銀河の光、 漁火(いさりび)
いちおし郷土料理 | いりやき |
海の幸、山の幸を食材にし、水炊きした食材の旨味をだしに、醤油で味付けした鍋料理で、どこの家庭でもごく日常的な郷土料理である。家庭によって微妙に味が異なる。このつゆで対州そばを食するは超美味である。 【食材】 対馬地鶏 or アラ、イシダイ、タイ、ブリ、クロ、キビナゴ白菜、春菊、葱、モヤシ、対馬椎茸、榎茸、豆腐、(対州ソバ) 醤油、(酒、味醂) 対馬地鶏 : TV・どっちの料理ショウの特選素材でも絶賛された地鶏で、ハウステンボスのホテルでは食材に使用され好評、美味である。 対馬椎茸 : 品質が良く、綺麗で肉厚である。自然の味と香りが特徴で、料理に欠かせない存在である。 対州そば : つなぎを使わないのが特徴で、美食家を唸らせる味とこくは、天下一品である。 |
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いちおし保存食材 | せんだんご |
いちおし菓子 | かすまき |
いちおしジュエリー | 対馬真珠 |
浅茅湾で養殖され、その品質の良さは全国的に定評がある。真珠養殖筏は、浅茅湾の名物である。また、真珠貝の貝柱は美味である。 |
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いちおし工芸品 | 若田硯 |
厳原町若田で採石した素材で加工した硯で、原石表面の模様を生かした美しさ、きめ細かい墨おりの良さが特徴である。歴史も古く、全国の書家に愛好者も多い。 |
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いちおし景観地 | 浅茅湾(あそうわん) |
浅茅湾は、典型的なリアス式海岸で、無数の入り江と小島からなり、春は海岸にゲンカイツツジが咲き誇りピンクに彩る。四季折々に風情を醸しだす景観は、観る人を魅了してやまない。対馬が誇る景勝地である。また、穏やかな海面から、真珠養殖や魚介類の養殖が盛んで、対馬真珠の名を世に知らしめている。 | |
いちおし名山 | 白岳 |
白岳は、山頂はセキエイハン岩からなり、標高 515.3mで原生林である。対馬特産のシマトウヒレン、チョウセンヤマツツジ等貴重な植物が自生する。四季折々に美しさを醸しだす名山である。 |
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いちおし墓地 | 万松院(ばんしょういん) |
対馬十万石藩主、宗家の菩提寺で、日本三大墓地の一つである。そこには、県指定の天然記念物の大杉が3本ある。百雁木と呼ばれる百数十段の自然石階段参道がある。 |
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いちおし祭り | 対馬厳原港まつり |
いちおし文学 | 島の秋 |
吉田 絃二郎、 1917年10月の出世作である。吉田 絃二郎が対馬に滞在し、対馬の経験(1906〜1908)を「島の印象を抒情詩的な気分で描いてみようと試みたものである」と絃二郎自身が述べているように、対馬ならではの印象的な自然や人の悲哀を流麗な筆致で描いたこの作品は、当時の感傷的な若い世代に受け入れられた。吉田 絃二郎( 1886〜1956)小説家、劇作家、随筆家。本名・源次郎、佐賀県出身。代表作に「島の秋」、「清作の妻」、「小鳥の来る日」がある。対馬を素材にした随筆も残す。昭和 31年4月21日没、享年70歳、多磨霊園に眠る。対馬、上見坂公園に「島の秋」文学碑(題字:火野葦平)がある。 |
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いちおし作家 | 半井 桃水(なからい とうすい)1860〜1926 |
厳原町出身。朝日新聞記者。樋口 一葉の師であり恋人であったが、小説は、多くは残していない。著に「忠臣蔵」などがある。 | |
いちおし力士 | 大関 対馬洋(つしまなだ)1887〜1933 |
第156代大関。本名は川上弥吉。厳原町久和(旧久和村)出身。1908年、出羽ノ海部屋に入門。対馬洋の関脇昇進(1916年1月場所)の祝宴には作家の半井桃水が列席している。1919年5月大関昇進。1922年引退。 |
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いちおし農政藩士 | 陶山 訥庵(すやま とつあん)1657〜1732 |
江戸中期の儒学者。号は鈍翁。木下順庵に学び、藩の外交・農政に尽し、農害をなす猪の退治に努めた。著に「老農類語」「水利問答」「農書輯略」「食兵宗旨」「民事紀聞」などがある。 |
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いちおし外交藩士 | 雨森 芳洲(あめのもり ほうしゅう)1668〜1755 |
江戸中期の儒学者。名は俊良、後に誠清。別号は橘窓。近江出身。木下順庵の門人。朝鮮語、中国語に堪能で、順庵の推挙で対馬藩に仕官し、朝鮮外交(朝鮮使節と応接)に非凡な能力を発揮した。外交思想は、「誠信の交わり」を説き、それぞれの文化に根ざした、民族平等、相互尊重にあった。盧泰愚韓国元大統領が来日した折、宮中での挨拶で雨森芳洲を話題にし、日韓両国の外交親善上画期的なこととして脚光を浴びた。 1968/5/17、近江(雨森)で、医師・雨森清納の子として誕生する。17歳の頃、木下順庵に入門する。22歳の時、順庵の推挙で対馬藩(宗義真)に仕官する。1693年(26歳)、対馬に赴任し、禄200石と府中(厳原)馬場筋に邸を下付される。 対馬に落ち着いた芳州は、 29歳で結婚する。50歳で禄加増、230石となり、翌年にかけ江戸に滞在する。54歳にして聚化庵を構え内々隠居する。1726年、藩主・宗義誠より誠字を下賜され誠清と名乗る。著に「橘窓茶話」、「橘窓文集」、「朝鮮践好沿革志」などがある。 1755/1/6、日吉の別荘で88年の生涯を閉じ、日吉の長寿院(臨済宗)に眠る。法諡は、[一得斎芳洲誠清府君]である。その生涯は、外交、学問、執筆活動に始終した。 |
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いちおし戦国武士 | 島 左近(しま さこん) |
関ヶ原の戦いで、西軍石田三成の頭脳として活躍した。対馬市美津島町島山に「島 左近の墓」があり、対馬出身の説があるが証拠がない。 ※現在では大和国出身であることが明らかとなっている。 |