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なんじゃもんじゃランド

島 の秋

対馬を舞台にした、吉田 絃二郎の出世作です。

吉田 絃二郎

島 の 秋

  「C(せい)さん一時俺が持たう。」
 でつぷりと肥つた五十格好の日焦けのした男は前に歩いてゐる色の青白い若者に声をかけた。
「なあに、親方重くも何ともありませんから・・・・」
 Cさんと呼ばれた若者はかう言つて肩にしてゐる振り分けの荷物をもう一方の肩にかへた。前の方の荷は四角な木の 箱を白い布で巻いて、さらにその上を人目に立たないやうに鬱金の風呂敷につゝんであつた。後の方の荷物は蔓で編ま れた山籠で、中には鏨(たがね)や鎚のやうなものが、飯盒や二三枚の着物といつしよにごつちやにして入れられてあ つた。誰の目にもこの島の海岸のアンチモニー鉱山※1の工夫だといふことは一目で察せられた。二人はともすれば、 だんまりこんで歩いた。
「これなら尚少し遅く立てば宣かつたなう。」
 親方は黒く煤(すす)けたパナマ服を脱いで、汗を拭いてちよつと太陽をかざしながら言つた。八月末の午後の太陽 はこの島 國の嶮しい山々の背を照らしてゐた。泥炭の屑のやうにくだけた山の背の道は、十日に一人か二十日に一人の 旅人を迎 へるだけで、野茨や木苺が両側から道をおほうてゐた。岩に反射した太陽の熱はぎらぎらと照りかへして幾度 かこの二人の旅人を眩ますやうにした。
「しかしこの山だけは太陽のあるうちに越しませんと難儀ですからなあ。」
 Cさんはかう言ひながら滴るやうな水々しい木苺の寶を口に入れた。
 冬の海の風をまともに受けて幹の途中からぷつつりと断ち切れたやうな櫟の林が、帯のやうに山の腰をめぐつてゐる 森林帯を通り越してからは、山は一面の芝草に埋められてゐた。釣鐘草のやうな形の藤紫の花や、チウリツプに似た紅 い花や、草菖蒲が一面に高原を埋めてゐた。
「今日は朝鮮の山がよく見えるぞなあ。」
 Cさんの後から隋(つ)いて歩いてゐた親方は草の上に腰を卸して、煙管をぽんとはたいた。黒い海と白い波を越え て夕陽を受けた南朝鮮の山々が、赤ちやけた尾根の輪郭をくつきりと水淺葱(みずあさぎ)の空に投げかけてゐた。
「沖は大分荒れてるやうですねえ。」
「あゝ白い波頭があねえに見えるんぢやなう。」
 二人はまた歩き出した。遠い谷の底で蝉の声が聞えた。秋らしい風が高原の草花の上を滑つて吹いて來た。道は今 までの嶮しさに引き替へて山の背から山の背へと緩やかな傾斜をもってつゞいた。
「あの三角柱ぢやつたなう。」
 親方は山の背の鞍部を一つ越して向こうの山の背に立つてゐる測量基点の三角柱を指さして言つた。
「えゝさうでしたねえ・・・・」
 Cさんも向こうの山の背の三角柱を眺めた。二人はそれつきり何にも言はないでまた歩みをつづけた。親方にもCさ んにも新しい色々な寂しい思い出が湧いて來た。
「姐(ねえ)さんがあすこに立つて待つているかも知れない。」
♪ 1
 Cさんは不図(ふと)かう想つた。それでも二三歩あるいてゐる間にCさんは肩にしてゐる骨瓶のことを想つた。C さんは寂 しい絶望と悲しさとを感じた。
「あすこぢやつたなう、お菊の わろ がもう歩けんというたのは・・・・」
 親方には四五年前内地からこの島に渡つて來た時、同じこの山の背を傳うて歩いてゐた折のことが思ひ出された。自 分の背に負ぶつてゐた男の子のことまでもが浮かん來た。其の男の子は鉱山に着いて間もなく死んだ。
 妻が草鞋に足を喰はれてCさんの肩に負ぶさるやうにして山を下つて行つたことなどを想(かんが)へてゐると、親 方は寂しいうちにも吹き出したくなつて來たりした。
「でも何もかも わや ぢや。」
 親方はCさんの肩の骨瓶を見まいとしたが駄目であつた。
「Cさん、代らう・・・・」
 親方はかう言つてCさんの肩の荷に手をかけようとした。
「親方、何でもないんですから・・・・」
 Cさんは逃げるやうにして親方の手を放した。
 二人はまただんまりこんで歩いた。
 樹の株をころがしたやうな黒い石が段々に重なつて道を塞いでゐた。やがて道はすつかり草に掩(おお)はれてしま つた。
 二人は一直線に三角柱を目あてに谷をのぼつて行つた。
「Cさん・・・・」
「親方・・・・」
 二人は時々深い草のなかに影を見失ふことがあつた。かちかちと後ろの山籠のなかの道具がぶつ突かり合うこともあ つた。ごとごとと前の荷の骨瓶が揺れるたんびに寂しい音を立てることもあつた。Cさんにはたゞ一人で何時までも草 のなかを掻き分けて寂しい穴の底にはひつて行つてゐるやうにおもはれた。そして二度と太陽や人の顔や人の声のない 暗い世界にたつた一人ではひりこんで、泣けるだけ思ふ存分泣いて見たいとおもつたりした。
「Cさん・・・・」
 Cさんは親方の声を聴きながらもわざと聞こえぬ振りをして応へなかつたこともあつた。それでも草を掻き分けてゐ る音がしばらく絶えると清さんは自分から親方を呼んだ。
「この邊であつたらう・・・・」
 灰のやうな白い細かい苔につゝまれた岩を滑りながらCさんは想つた。Cさんの心にもその折のことがはつきり浮か んで來た。
 男の子を背負つた親方はずんずん先になつてこの山を下つて行つたのであつた。姐さんを負ふやうにして山を下つた Cさんはなかなか急いで歩けなかつた。二人は幾度も深い草のなかに道を失はうとした。姐さんの ほてつ た頬がすれ すれにCさんの頬に触れた。上気したやうな姐さんの頬はやつと もの 心を覚えたばかりの清さんの心にもたまらなく 美しいもののやうにおもはれた。姐さんの手を引いてゐながらも清さんは幾度も女の柔らかい手を意識した。
「Cさん、もう妾(わたし)歩けない。二人で死んぢまひませうか。」
 姐さんは苦しいなかにもかう言つて笑つた。Cさんは女の手を握つて黙つて山を下つて行つた。
「親方・・・・」
 Cさんは急に親方を呼んだ。どこかで「こつちだ こつちだ・・・・」と呼んでゐる親方の太い声が聞えた。
「標高六二〇米三・・・・」
 Cさんは読むともなしに標柱に刻まれてある文字を読んだ。日蔭になつて黒ずんだ白嶽※2が、長い鋸形の影を重なり
♪ 2
合つた幾つもの低い山の背に投げかけてゐた。そこからはまた白嶽の背を越して銀のやうな海が空とひたひたになつて ゐるのが見えた。
「あの海のわきが鉱山(やま)だ!」
 親方もCさんもさう思つた。けれども二人ともお互に口に出すことを怖れた。鉱山は二人にとつては余りに寂しい思 ひ出の土地となつてゐたから。
 炭を焼く白い煙が紫に煙つた谷底から上つては海の方へなびいてゐた。
「佐郷※3までは尚(もう)二里もあらうかなう?」
「さうですなあ・・・・」
「佐郷の手前に行きや大けな河があるので、思ふ存分体拭いて行かう。」
 二人は離ればなれに歩いた。また沈黙がつゞいた。重なり合つた山と山との間に深い暗影をつくつて日の光りは衰へ て行つた。麓の谷々には淡い霧が漂ひ始めた。清さんは歩くのもいやになつた。急に亡くなつた姐さんのことがいろい ろに想ひ出された。
「なぜ姐さんはあのやうに急に亡くなつたのであらう?」
 十三の歳はじめてCさんが親方の家に伴はれて來た時は、姐さんは二十一か二で、親方とは親子ほど年がちがつてゐ た。清さんは子供心にも美しいやさしい小母さんだとおもつた。姐さんもまたCさんを自分の弟か何ぞのやうにおもつ て可愛がつた。
「錦糸堀知つてて?さう、曳舟も・・・・」
 姐さんには娘のころ立つて來てしまつた東京の町外れが懐かしかつた。親に死に別れたといふこと、同じ東京に生ま れたいふことまでもが姐さんには二人を結びつける何かの因縁であるやうにおもはれた。そのころ姐さんは親方と一緒 に山陰道の雪深い海岸にゐた。親方はそのころから夏から秋にかけて海に出て、潜水機械をつかつては鮑を取つた。姐 さんとCさんは何時も喞筒(ポンプ)のハンドルを動かすのが役目になつてゐた。親方は潜水服を着て海のなかに下げ られた梯子に足をかけた。
「こればかりは身内の者にして貰ふと安心ぢやからなう。」
 姐さんと清さんが重い冑を親方に冠せるとき親方は克(よ)くかう言つて笑つた。そして喫みさしの煙草を静かな水 の面に捨てた。清さんは冑を冠せて捻子をしめた。姐さんは静かに空気喞筒(ポンプ)のハンドルを動かしてゐた。怪 物のやう な鉄の冑や、ゴムの赤い潜水衣が見えなくなつてからは時折りぷくぷくと水の泡が船の周囲に音を立てて浮か んだ。姐 さんは大阪で覚えたといふ唄などうたふこともあつたが、大抵は黙つて機械的に手を動かしてゐた。
 冬の海が荒れて仕事ができなくなると、親方は鑿(のみ)や鶴嘴(つるはし)を担いで、雪深い鉱山の仕事に出かけ た。親方の家に は何時も五人や六人の男たちが親方を頼つて厄介になつてゐた。男たちも親方について鉱山に行つた。 清さんだけはま だ姐さんと一緒に海岸の家にのこつてゐた。雪の深い夜、戸外には風の声一つもしない静かな夜、清さ んは榾(ほだ)の火が消えるまで姐さんと東京の話をした。
「妾(わたし)東京に帰つたつて家もないんだけど、奉公したつて良いから帰つて見たい。」
 榾火(ほだび)が滅(き)えてしまつてからも二人は灰を掻きまぜた。そのたんびに小ひさな火がのこつてゐて二人 の顔をちよつとの間紅く照らした。
 雪解の滴(したゝ)れが時たま軒をすべるのが ばさ と仄かな音を立てて雪のなかに滅えた。夜更けてからきまつて 丹波行きの馬車がぽうぽうと喇叭(ラッパ)を吹いて雪のなかを通つて行つた。
「こんな家から逃げて東京にかへりたい・・・・」
♪ 3
 姐さんは戸を明けて眞つ白な雪の町を見た。
 黒い海と暗い空には限りもない星がまたゝいてゐた。姐さんにも清さんにも明るい大都會が耐(たま)らなく恋いし かつた。
「おつ母さんだつてあるにはあるんですよ。しかし父が早く亡くなつたものですから・・・・妾(わたし)が 大阪に つれられたのもほんとは賣られたやうなものなんですよ。それをまたこゝの親方が貰ふことになつたのです。」
 姐さんは雪の夜など克(よ)くCさんに話した。姐さんはまだ夫婦といふものがどんなものだか、男といふものがど んなものだか少しも知らない間に親方に貰はれたのであつた。
 母につれられて里にかへつてゐたころも姐さんの母親は「この子さへなかつたら」と言つては何かにつけ姐さんに辛 くあたつた。姐さんは子供心にも早く母親のところから出なければならない、それが母親を安楽にさせる方法だと考へ た。母親は姐さんを捨てるやうにして再縁した。
「この家さへ出たら仕合せがあるにちがひない。」
 姐さんは大川端の倉の窓から、濁つた大川の流れを見ては幾度もさうおもつた。
「母が尚(もう)すこし温かな心をもつてゐましたら、こんな家に買はれるやうにして來ることもなかつたのです に。」
「しかしおつ母さんだつて、あなたを不仕合せにさせるつもりではなつたでせう。」
「母だつて、叔父の家に母子で厄介になつてるのは苦しかつたにはちがひないんですけれど・・・・」
 此(この)島に來てからも二人は克(よ)くこんなことを話し合つた。
 何処の鉱山(やま)行つても、 漁場に行つても姐さんは直ぐに若い人々の間の噂の中心になつた。誰れも彼れも親方 ほど仕合せな男はないと言つた。それでも親方は酒をあふつては料理屋(ちゃや)から料理屋へと夜を更かすことが多 かつた。
雪の深い山陰道からこの島に移つて來るとき姐さんは身重であつた。それでもこの島に着いて間もなく親方は姐さん の横場を蹴つたのでおなかの子は流れてしまつた。
 親方はその日佐須奈(さすな)の町に行つて、大漁目当てに内地から渡つて來てゐた女と、一日遊んで帰つて來たの であつた。
「きさまは亭主が他の女を買うても口惜しいとは思はぬか、きさまはあはうぢや。」
 親方は姐さんの親切や眞心を信じてゐた。けれども 親方は何時も姐さんとの間に一枚のへだたりを持つてゐた。姐さ んは一度でも夢中になつて親方に何(ど)うするといふことはなかつた。
「お前ばやきもちといふことを知らんのか?」
 親方は酒を飲んではかう言つた。親方はもつともつと姐さんにやいてもらひたかつたのであつた。けれども姐さんは つひぞ嫉妬といふことを知らなかつた。
「いくらでも酒を飲まして置いた方が宣(い)いのよ、うるさくなくつて!」
 姐さんはかう言つては幾らでも親方に酒を飲ました。
「妾(わたし)だつてこの家に來たころは男といふものを大事にしようとおもつたんですよ。けれど今ではそんな面倒 くさいことはいやになつちやつたの。」
 男の子が死んでからこつち姐さんの心はは一層すさんで行つた。 「人間てものは振り出しが大事ですわね。振り出しが悪けりや 一生うだつは上りませんよ。」
 姐さんは克(よ)くかういふことを言ふやうになつた。
♪4
「では、一度振り直して見たら何(ど)うです!」
 Cさんはこの時ばかりは何だか取りかへしのつかぬ悪いことを言つたやうな気がした。
「えゝ、振り直して見ても宣(い)いんだけど・・・・こんなことは嘘なのよ。」
 姐さんが笑つたのでCさんはやつと安心した。二度とそんなことを言ふものぢやないと思つたこともあつた。
 男の子が死んだので小ひさな土饅頭の墓が濱の松林のなかに築かれた。姐さんはヒステリーのやうになつて朝から松 林のなかを歩いてゐた。
「死んぢやつた方があの子のためににもましだつたでせう。」
 姐さんはCさんにかう言つた。
 子供が死んだ頃から親方は大抵家にゐるやうになつた。姐さんは面と向つてはつひぞ親方と諍(いさかい)などする こともなかつた。親方は自分の娘のやうに姐さんを可愛がつた。
            ※
「宣(え)え凪になつたやうぢやなう。」
 親方は沖を見なながら後から歩いてゐるCさんに話しかけた。黒い潮の上を幾十里の間幾萬とも知れぬ白い帆や紫の 帆が動くともなく動いてゐた。島の浦々から夕風を受けて船出する漁船は、まるで巣をはなれた白鳥のやうに、空とも 水ともわかぬ縹緲(ひょうびょう)の間を走つてゐた。
「今年は烏賊(イカ)は大そう宣いといふこととですなあ。」
「さうかも知れんなう。」
 親方は気のないやうな返辞をして谷底の方をのぞいてゐた。
「Cさん、流れの音が聞えはせぬかなう。」
 Cさんも立ちどまつて谷の方の音を聴いた。蜩(ヒグラシ)※4の声が一しきり聞えた。
「こりや、佐郷に着きや、とつぷり日が暮れるかも知れんなう。」
 親方は懶(ものう)ささうに歩き出した。二人はまた黙りこんで歩いた。
 親方には姐(ねえ)さんの美しかつた眼や、胸や、優しかつた心がけや、何時も子供のやうで頼りなかつたいぢらし さなどが犇々(ひしひし)と浮かんで來た。親方は幾度も深い吐息をついた。
「俺には最(も)うあのやうな世界は二度と來(く)まい。俺はたゞ死ぬる日を待つてるばかりぢや。」
 親方はかう想つた。姐さんといふ女があつたばつかりに親方の世界が今日まで意味があつたやうにおもはれた。
「花だつて咲くのは五日か十日ぢやからなう。」
 親方は吐き出すやうに言つた。ほんたうな人間の仕合せな時間といふものもやつぱり一生の間のほんの少(わづ)か の間であるのがあたりまえへのやうに思はれた。
 島で一番大きいと言はれる佐郷の川原に出た時は日はとつぷり暮れてゐた。廣い川原が白く夢のやうに暗い谷の底を縫 うてひろがつてゐた。
「もうさすがに秋ぢやなう、冷たうて良うはひれぬ。」
 親方は頭から肩あたりに冷たい水を浴びながらさう言つた。  Cさんは荷を磧の上に置いて、足を投げ出しまゝ、犬蓼(イヌタデ)の上に座つてぼんやりしてゐた。
「姐さんを火葬にしたのもこのやうな川端の山であつた。」
 Cさんはつい昨日のやうな気がした。火葬場といふもののない島では内地から來た人たちは大抵は土葬にして髪や爪 だけを持つて内地にかへつた。親方やCさんは姐さんの亡き骸を島の 土にするには忍びなかつた。たまに旅の人々が使
♪5
用する火葬場といふのは川に沿うた小高い松林のなかに、竈(かまど)のやうに なつた窪地に石を畳(たた)んでその 上に 姐さんの棺桶を置いた。棺桶の下と上と一面に松の枝を投げかけた。親方や村の人達はしつきりなしに やまねこ (地酒)※5を飲んだ。火をつけてから間もなく村の人達は帰つて行つた。親方とCさんは燃え切つてしまふまでゐた が、 親方はぐでんぐでんに酔つて、泣き出してはCさんを困らせた。黒鳥がくつくつと啼いては松林の煙を追うて翔ん だ。Cさんまでもがしまひにはそこにあつた やまねこ を徳利から口づけにあふつた。
            ※
   二人が今夜泊ることにして來た江村といふ家は村の入り口で聞いてすぐにわかつた。江村といふ男は海岸で親方の厄介 になつた男の一人であつた。 この島に來てからも親方は夏から秋にかけては鉱山から下つて海に出てゐた。そして潜水 器を使用しては海産物を取つてゐた。江村は鮑取りの上手な男であつた。江村の家もこの島によく見る郷士の邸風な建 物で、低い石の塀をめぐらしたり、玄関には式台見たいなものがくつついてゐたりした。江村は暗い奥から出て來た。
「それはまあひどいことぢやしたなあ・・・・そして何時亡くなつてぢやしたかなあ?」
 江村は薄暗い五分心のランプを掻き立てながら訊ねた。
「丁度昨日が四十九日にあたつたのぢやがなう。」
 親方は草鞋(わらじ)を ぬぎ ながら力ない返辞をした。
「四十九日が間は霊(たましい)も家の軒をはなれぬ言ひますでなあ。」
 人の宣ささうな江村の母親が洗足の水を運びながら言つた。
「それがたいそう急な病気でものの二時間と立たない間に死んだのぢやからなう。」
 親方はCさんが肩から卸したばかりの包みを見ながら言つた。
「正午(ひる)少し過ぎでしたらう、私が濱から帰つて來ると姐さんは冷たくなつてゐたのです。」
「それはまあ・・・・」
「何でも暑いのに戸外(そと)に出て張り物をしてゐたといふことぢやがなう。」
「えゝ、私が行つた時にはまだ張り板もそのままで、まだ一枚のなんか乾いてもゐなかつたのです。」
「まあ何とか尚(もう)ちよつと早かつたら思ふがなう!」
「それで何ちふ病気ですかい?」
「まあ脳貧血やら、脳充血やらいふものやらう。」
「まあむごいことぢやなあ・・・・」
「いや、みんな人間の因縁ぢやで何(ど)うも為(し)やうない。」
「さうとでもあきらめんぢやなあ・・・・」
 Cさんは風呂敷包みをはゞかるやうにして縁の端に置いたが、江村は無理にとつて床の間に上げた。江村の母親は線 香を焚いて拝んだ。
 江村の家内もそれに出て來てみんなに挨拶した。そしてかの女が引つこんで間もなく酒の用意ができた。
「何もありませんが、今夜はゆつくり泊つて飲んで行つておくれ親方・・・・」
 江村は親方に盃をさした。江村が佐郷川で捕つたといふ鮎やら、海で捕つたといふ魚などが膳の上に並べられた。
 馬糞や秣(まぐさ)の発酵する臭ひがかすかに漂うて來た。
♪6
「それでは内地に帰つて、二度とこつちへお出でにもならんのぢやなあ・・・・」
「子供も亡くす、家内も殺すしたんで、よう居る気にもなんからなう。」
 親方は盃を江村にかへした。
「何ですかい、やっぱり故郷(くに)の方へ ぢやすかい?」
「いんや、故郷いうてはないも同じぢやでなう。まあ内地に着いた上で何処に行くか決めよう思ふんぢや。」
 江村はCさんに盃をさした。
「あのやうによい姐さんはありませんぢやしたがなあ。」
「俺の口からいふのも妙ぢやが俺にはよすぎとつたかも知れんハハヽ・・・・」
 親方はちよつと床の間の方を向いて笑つた。
「さう言やあ姐さんには大分若いやつらはさわいでゐましたよ・・・・なあCさん。」
 江村は笑ひながらCさんの盃をうけた。 「しかし、お菊といふ女はもと さむらひ の出ぢやいふのでか、さわがれたりするのがきらひでなう。」
「それで親方も安心ぢやつたのさ、でなけれや親方だつてあのやうな美しい姐さんを放り出して鉱山なんぞにこもれる ものかなあ。」
「お菊ばつかりや、あいつは女の石部金吉といふんぢやらうハハヽ・・・・」
 親方は眼を細くして笑つた。
「Cさん、何うしたのぢや、ちつともいけんぢやないか。」
 江村はぼんやりしてゐるCさんの盃にさした。
「おい飲めやCさん、若いもんが・・・・」
 親方までもが盃をCさんにさした。
「いや、私もう飲めません、疲れたせゐかすつかり酔ひがまはりました。」
「Cさん、何いふか、内地にかへりや、これで島の やまねこ が恋しいこともあらう。」
 江村はCさんの肩を抱くやうにして燗徳利をCさんの前に押しつけた。
「Cさん、お前ほど仕合せものはなかつた。あのやうに姐さんに可愛がられて・・・・」
「お菊の奴、Cさんいやあ、まるで血を分けた弟のやうに思うとつたのでなう。」
「大分Cさんをうらやんでる奴もあつたよ。」
「お前もその一人ぢやつたらうハハヽヽ。」
 三人が一緒に笑ひ出した。
 親方も江村も大分酔うてゐた。Cさんは縁端に出..涼しい風に胸をはだけた。山と山の間に深く抉(えぐ)られたや うな空は暗かった。飽くまでも高く、飽くまでも澄んでゐた。限りない星が暗い淵ををのぞいてゐた。
 ことことと秣桶の音がした。若い女の澄みちぎつた 麦搗(つ)きの唄が、軽い杵の音に交じつて聞えた。
「姐さんは何故あんなに早く死んだのだらう?」
 Cさんには姐さんの死が自然でなかつたやうにおもはれたりした。
「女つてつまらないものよ。妾なんか何のために生まれて來たんだかわからない。親にも可愛がられないで、一生ほん たうに誰も頼るものがないんですもの。」
 姐さんはCさんと二人切りのときしみじみと語つたことがあつた。
「一生のうち、たつた一度で宣い、思ふ存分泣いて見たい、笑つて見たい。」
 姐さんはよくかう言つた。 母親につれられて叔父の家に厄介になつてゐた姐さんは、娘のころからどのやうな悲しい ことがあつても、顔に出して泣くことはできなかつた。
♪7
「この子は何て意地つ張りでせう。」とよく叔母はさう言つて姐さんをつねつたりした。それでも姐さんは一度だつ て、人の前で声を立てて泣くやうなことはなかつた。親方の家に來てからもさうであつた。一度だつて姐さんは親方の 前で泣いたことはなかつた。
「Cさん、何うしたんでせう。Cさんの前だけでは妾(わたし)は泣けるやうな気がしてならないのよ。泣かして頂 戴。」
 姐さんはかう言つて眼を赤くしてゐた。
 親方が鉱山に籠つて海岸に帰つて來ない夜など、Cさんはよく暗(やみ)の底に啜(すす)り上げて泣いてゐる姐さ んを見出した。
「眼をさましてお気の毒でしたね。堪忍して頂戴、妾の病気なんですから。」
 姐さんは子供のやうにすゝり上げて泣いた。
「自分でも分らないんですよ。でも、かう泣けるだけ泣いてしまふと宣いんですよ。妾は昔からかうなんです。」
 親方すら姐さんが人にかくれて泣いてゐたといふことは知らなかつた。
 死ぬ少し前だつた。
「Cさん、妾が死んだら、あなたも死んで頂戴。」
 姐さんは冗談に言つたことがあつた。
 ついこないだであつた。親方が鉱山から下りて來て、明日から海にはひらうといふので、姐さんとCさんは潜水器の 手入れをしてゐた。
「お菊、空気筒(ホース)をよく見といておくれ。それが生命(いのち)の綱で、いつち大切ぢやからなう。」
 親方はさう言つて濱の方へ船を見に行つた。
 姐さんはいつまでも空気筒を調べてゐたが、そこには一つの罅(ひび)もなかつた。
「Cさん、これで大丈夫だわねえ。」
 Cさんは一応調べて見た。が、そこには何の異状もなかつた。
 翌(あけ)の日、船に乗つてからであつた。姐さんが真つ先きに空気筒に小さな罅がはひつてゐるのを発見した。
 それでも姐さんは親方には言はないでこつそりCさんに言つて修理さした。空気筒は鋭利な小刀(ナイフ)のやうな もので五分ばかり切られてあつた。
「何うしたんかい?」
 親方は空気筒を繕うてゐるCさんの手元を見ながら訊いた。
「少し孔が出来たんです。」
「水にはひらぬ前で宣かつたなう。」
 親方は何でもないと言つた風で煙草をふかしながら、方錐形の木の枠に硝子を張った覗きで海の底を見てゐた。
「親方も不仕合せな人さ、妾のやうな女を貰つたんですから。」
 親方が潜水した後でハンドルを動かしながら姐さんがCさんに話した。
 それから四五日経つてからだつた、姐さんが死んだのは。
「親方、もう佛さまのおのろけは大概にしてさ、うんと飲まうぢやありませんか。」
 筒抜けた声を出して江村が今度は大きな椀を親方にさしてゐた。
「飲むとも。」
 かう言つて親方は椀を受けとつた。
 そしてなみなみと注(つ)いだ酒を一息に飲みほして、江村にさした。江村もまた一息にのみほした。
「相かはらずお前もいけるなう。」
 親方はどろんと曇つた眼を瞠(みは)るやうにして言つた。親方の手は(ふる)へてゐた。
♪8
「酒を飲むのと、戦するのが昔から島の男の しやうばい ぢやつたからなあ。」
 江村はかう言つて床の間を眺めた。 「わしどんが幼かときは、まだこゝにはちやんと甲冑櫃(よろいびつ)があつたんですが、親父が酒のかはりに売りこ くつたんですたい。」
「お前も手伝うたんぢやろ。」
「いゝや、親父の奴が酒と、それから博多から來とつた じやうもん (美人)に夢中になつてぢやすたい。」
「そいぢや親父さんは戦争もでけんだつたらう。」
「戦争したなあ、蒙古が來たころぢやすたい。」
「そいぢや大昔ぢや。」
「うんにや、そいでも島の人間は今でも戦は上手ぢやす。去年もわしどもあ大演習に呼ばれて内地に行つたが、警備隊 の兵隊がいちばん宣う働いたですよ。」
「酒飲むことと女郎買ふことばかり働くんぢやろ。」
「女郎買ひも働くにや働いた。ばつて柳町の じやうもん は宣か、あればつかりや内地が宣か。」
 二人の酔漢は大きな声を出して笑つた。
 江村のおかみさんが飯をはこんで來たのは麦搗き唄も聞えなくなつてからであつた。江村の老人は二三度床の間の線 香を立てかへに來た。
            ※
   Cさんは何うしても眼れなかつた。酒と山越しに疲れた体中に、鋭い神経がいやが上に鋭く働いた。佐郷川の流れと 遠い海の響きが絶え間なく近い山に谺(こだま)した。勝手の方では老人とおかみさんは一目も寝ないいで準備(した く)をしてゐた。親方も眠れないので二三度起き上つては水を飲んだ。江村の高い鼾(いびき)のみが夜つぴて絶えな かつた。
「Cさん、それでは夜が明けるまでに港まで出ることにせうかなう。」
 細くしたランプの心をかきたてながら親方は煙草に火を点けた。
 おかみさんが來て江村をゆり起した。江村はなかなか覚めなかった。
「そいぢやどうしてもこの夜なかに立つとですか?」
 江村は眼をこすりながら言つた。
「そいぢや馬にして行きなはれ。」
 老人が庭に下りて親方と江村の顔を見ながら言つた。
「夜の道は馬ぢや危ない。わたしが港まで行かう。」
「いやそいぢや気の毒ぢやから、明りだけ貰うて行かう。」
 江村は山一つ向こうまでといふので、炬火(たいまつ)を持つて先きに立つた。Cさんは荷を振り分けにしてかつい だ。
「さよなら・・・・厄介になりました。」
「あい、さよなら・・・・」
 老人と江村のおかみさんは泣いてゐた。そしてCさんの肩の風呂敷包みを拝んだ。山にかゝるまで江村の家の明りだ けが白い佐郷川のほとり見えた。
「良い心持ちぢや。」
 親方は胸をはだけながら冷たい風をうけて、先きに立つて歩いた。満天の星河は秋らしいC爽の気に充ちてゐた。幾 万と限りもない漁火が玄海を埋めて明滅してゐた。大きな山螢
※6
が道を横切つて滅(き)えた。
「こゝいら冬になると鹿※7が出ますよ。」
 江村が親方に話した。
「山猫※8なら今から捕れますよ。あいつは悪い奴で、夜になると鳥の塒(ねぐら)にやつて來るのですたい。」
♪9
 親方は疲れたかして幾度も道ばたに腰を卸しては 煙草を喫(の)んだ。江村一人がのべつに話しつづけた。
「Cさん、内地行つたらあんまり じやうもん を泣かせちや罪ばい。」
 Cさんは黙つたまゝ歩いた。親方の煙草の火だけが後ろの方で遠く時々明るくなつた。
 嶺に達したころ炬火(たいまつ)は燃え切つてしまつた。それでも山の背は明るかつた。白い道がかすかに青い草原 (くさはら)を縫うて走つてゐるのが見えた。
「それではこれでおわかれとせう・・・・いや、どこまで來て貰ても はて はないから・・・・」
「それぢやまたどこぞで逢ふこともありませうで。」
「落ちついたら知らせるから・・・・」
 江村の立つてゐる黒い姿が空に投影して久しいこと嶺の上に見えてゐた。
「やまねこ にたゝられたと見えて体がだるい。」
 親方はともすればおくれがちになつた。
「Cさん、俺いつとき代つて担がう・・・・」
 Cさんに追ひついては親方がかう言つた。
 二人は何にも語らないで白い道を歩いた。
「何時までもこのまゝの夜道がつゞけば宣い。」
 二人はさうおもつた。
 ばたばた と二人の足音が静かに聞えた。黒鳥がくゝくゝと草のなかを鳴いて走つた。
「親方、あれが港の燈台でせう。」
 Cさんは立ちどまって山の裾の方を指さした。そこには暗い山の陰に際立つて明るい火が燃えてゐた。
「もう直ぢや、一休みして行くことにせう。」
 親方は投げ出すやうに体を草の上に横たへた。Cさんも親方の傍に行つて腰を卸した。草地の蚊が時折り耳をかすめ て飛んだ。
 二人は青い葉を折つて焚いた。白い煙がくつきりと草原を這うて海の方へなびいた。白い波頭が山の根を噛(か)ん でゐるのが銀の帯のやうに見えた。
「もう東も白んで來るぢやらう。」
 眠さうに親方が言つた。
 二人は限りもない空の星と沖の漁火を見つめたまゝ黙りこんでゐた。二人は何時とはなしにうとうとと眠つた。親方 の鼾が高くきこえた。
 Cさんが眼をさました時には、既(も)う夜はすつかり明けてゐた。海には灰色の帆が限りもなくつゞいた。空はす つかり曇つてゐた。壱岐の勝本の鼻が 少(わず)かにどんより見えるだけで、内地の島影は見えなかつた。
 暗い玄海の面(おもて)を燻(いぶ)し銀のやうな白い波が、涯(はて)もなく流れては、雲や空のなかに滅(き) えて行つた。
 絶望と困憊とをたゝへた親方の顔の色は土のやうに見えた。親方は他愛もなく眠つてゐた。力ない呼吸と鼾とが土の 底から洩れて來るやうにおもはれた。
 Cさんは全身の骨と筋肉とが一つづつ離れ離れになつたやうに懶(ものう)かつた。
 Cさんはぢつと親方の死人のやうな顔を見つめてゐた。そこには鬱金の風呂敷包みが草の上に横たへられてあつた。
 Cさんは子供のやうになつて泣いた。
♪10

  完


島の秋 2008/3/22 転載
 現代日本文学全集 第四十七篇
 著者 吉田 絃二郎
 昭和4年5月15日 発行 改造社より


  島の秋、転載者註

※1:アンチモニー鉱山→古くから銀、亜鉛などを採掘していたが、公害で閉山した。
                    ※2:白嶽→対馬の名山。大陸種、日本種、対馬固有種の植物が混生する。
※3:佐郷→現在の佐須
※4:蝉→ヒグラシとかなが付いているが、蝉の総称か?ヒグラシは対馬には生息しない。
※5:やまねこ→地酒とあるが密造酒。同名ブランドの焼酎もある。
※6:山螢→アキマドボタル、日本では対馬のみに生息、県地域指定天然記念物。
※7:鹿→ツシマジカ、対馬固有種、県地域指定天然記念物。
※8:山猫→ツシマヤマネコ、絶滅危惧種、対馬固有種、国天然記念物。

1,原文に忠実に転記しましたが、一部は常用漢字に直したものもあり、括弧()のかなは現代仮名遣いにし、生物名はカタカナに直しました。
2,作者()注釈は原文通りにしました。
3,会話は対馬方言が使われていますが難解ではないので注釈は付けませんでした。なお、「対馬の方言」ページを参照ください。
4,2字繰り返し符号はかな、漢字に直しました。
5,傍点文字は半角スペースで句切りました。

  島の秋

 島の秋は、吉田 絃二郎の1917年10月の出世作である。 吉田 絃二郎が対馬に滞在し、対馬の経験(1906〜1908)を「島の印象を抒情詩的な気分で描いてみようと試みたものである」 と絃二郎自身が述べているように、対馬ならではの印象的な風物、人の悲哀を流麗な筆致で描いたこの作品は、 外来語を使用し、 当時のモダンで感傷的な若い世代に受け入れられベストセラーになった。

吉田 絃二郎・よしだ げんじろう(1886〜1956)

 小説家、劇作家、随筆家で、本名・源次郎という。 1886年(明治19年)11月24日、佐賀県に生まれ、父の事業の失敗で佐世保に転居する。 1899年、長崎東山学院 (ミッションスクール)に編入学するが中退する。佐賀工業学校、佐世保海軍工廠、 神田国民英学会を経て早稲田大学英文学科に入学する。 在学中の1906年12月1日、志願兵として対馬要塞砲兵大隊に入隊、重砲兵大隊を経て1909年復学、卒業、講師、 教授、作家として1934年その職を退き自由作家活動に入り、代表的日本近代文学者の名を確立した。

 代表作に「島の秋」、 「磯ごよみ」、「清作の妻」、「小鳥の来る日」がある。 対馬を素材にした随筆も残す。1956年(昭和31年 )4月21日没、享年70歳、多磨霊園に眠る。 1957年、対馬、上見坂公園に 「島の秋」文学碑 (題字:火野葦平)が建立された。
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